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対談:市川政憲 x 河口龍夫

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対談:市川政憲 x 河口龍夫

2019/08/11

「河口龍夫ー時の羅針盤」展の夏会期がいよいよ8月10日より、越後妻有清津倉庫美術館で始まりました。開館に先駆けて、7月27日に行ったレセプションでは十日町市長、美術館キュレーター、プレス関係者などが集いました。長年、河口龍夫作品を見て来られた評論家の市川政憲氏を迎え、作家との対談を通して作品に流れる時間や関係といったテーマについてお話しいただきました。
今回刊行された展覧会図録(アートフロントギャラリーにて発売中)と併せてご覧ください。



市川政憲 x 河口龍夫 対談「河口龍夫-時の羅針盤をめぐって」
2019年7月27日 越後妻有清津倉庫美術館フォアイエにて




市川:ご紹介いただきました市川です、よろしくお願いします。河口さんの作品と深く関わることになったのは、茨城県近代美術館にいた時に企画した二つの展覧会、2009年の“眼を閉じて-「見ることの現在」”と2013年の“二年後。自然と芸術、そしてレクイエム”でした。また、2017年の横田茂ギャラリーでの個展“時のかたち”に一文を書かせていただきました。河口さんの仕事について書くことは私にとって非常に難儀なことであり、いろいろと考えさせられます。それというのも、その仕事の核心は、時間のことにあるからだと思います。「関係」ということから始まり、近年では「時間」を前面に出して仕事を展開されています。

実際、「関係」というのは決して空間的、つまり見えるものではなく、おのずから時間の上に成り立つものかと思います。ですから、「関係-時間」と言葉が重なって来ると、ありとあらゆる存在の核心に行ってしまっている感じがして、どう切り込んでよいのやら…。要して言えることではないのですが、覚悟して、河口龍夫とは「時間をつくる人」と言ってみます。「つくる」と言っても、「創る」という大それたことではなく、時間を「作る」、言い換えれば、時間を持たせてくれる、或は、実感させてくれる人、そのように見ています。

今日は、どこから話し始めればよいのか、事前に少々相談させていただいたのですが、最近の展覧会で私が考えさせられたことをご本人に投げ返してみようと思います。

一つは、昨年の黒部市美術館での“河口龍夫-ちのこうや”という展覧会から。展覧会のカタログに寄せられた河口さんのテキストの中の「言語なき思考」に、目を瞠りました。と言いますのは、この言葉に彼のこれまでの「精神の冒険」の航海の指標が与えられたように感じ、驚いたのです。そして、メインのインスタレーションの《ちのこうや》に、それが抽象的な観念ではなく、それを実感したのですが、まずは、このタイトルが「ちのこうや」と平仮名で表記されていることについて伺ってみたいと思います。とても見映えのするインスタレーションですが、床に広がる800冊の本、これはどのような本でしょうか。

《ちのこうや》 2018 / 800冊の本、種子(蓮)、蜜蝋、銅線、銅パイプ、白紙 / 黒部市美術館 / 撮影:池田 ひらく


河口:実は最初は私の書庫からと思っていたんですけれども、私の所有する本は偏っていてですね、それで世界のさまざまなジャンルの本を集めたいと思っていたら、黒部の黒部国際文化センターコラーレの方がすごくいい方で、図書室にある本をどれでも持っていっていいといってくださったんです。そうすると私が持っていない本とかいろんなジャンルの本で、世界が成立しているだろうという本を集めることができたんですね。800冊というのはその空間に大体800冊ぐらい納まるだろうというわけで、そういう本です。

市川:今お聞きして、あらためて気付きましたが、いろいろなジャンルの本があるにもかかわらず、その800冊の本はすべて白い紙で表紙を覆われていますから、どういう本かはタイトルが隠されていますね。

河口:その通りです。

市川:そこが一つポイントと言うか仕掛けですね。それともう一つ、その800冊の置かれ方ですが、カタログに寄稿された光田由里さんは「波打つように」と美しく表現されていますが、確かにそのようにも見えます。二層か三層か、ところどころで重なっている…


河口: 2冊のところと3冊のところがありますね。

市川: 重なりながら広がっている、そこに、地平的な広がりと地表的な重層による垂直の軸と、二つの方向性が見られます。

河口:そうですね。

市川:それぞれの本から銅線を介して、蜜蝋でコーティングされた種子が揺れ動くように立ち上がっている。先ほど、河口さんが発せられた「言語なき思考」という言葉を私は「指標」と申しましたが、精神の長い航海の果てに、天空に一つの指標が現われたかのように思えて感動を覚え、この展示は大変なものだと思いました。

「ちのこうや」は、2015年に河口さんが着想された時のドローイングでは、「知の荒野」と漢字交じりの表記がされています。おそらく皆さんも、「ちのこうや」と聞いた時、頭の中に、漢字が見えて来たのではないでしょうか。私の場合、知識の「知」にあれのの「荒野」がまず浮かびました。試みにパソコンで打ってみたら、そのように出てくるのです。「知」という言葉も「荒野」も何となく理解はしています。「知の荒野」ということであれば、「知」の現在の状況を批判的に捉えた言葉ではないかと、何となく意味も受け取れます。ところが、それを河口さんは全部を平仮名表記にされたのです。

(左)河口龍夫、(右)市川政憲 / 撮影:中村脩


河口:本をまず扱ったのは、世界を表現しているのは本だと思うんですね。そのためには本にカバーをつけて何の本かを見えなくする。そういう作業をする。借りた本だったので汚せないこともありましたが本に見せるために、カバーをつけました。

800冊の本を並べてその本から蓮の種子が発芽している状況を作ろうと思ったんですね。もともとドローイングが生まれたそのときは、知の荒野と書いていて、それは今、「知」が大切にされていないような気がして、知に対する人類が求めていた知が今すごく落ちてきていて、荒野に散らばっているというか、荒野の知になっている。それがあったんですけれども、黒部の大地を見たときに、地面の地と知識の知、が互角に見えて、そのときにもう、平仮名で僕が感じる「ち」にすると、メッセージが強くなるので、それで平仮名にしたんです。漢字を知らなかったわけではないです(笑)。

市川: 知識の「知」も荒野も頭の中で漢字が見えてしまうことが問題であるように思いました。漢字に変換できなかった「の」が、まさに河口さんの言われる「関係」の所在であり、関係が成り立つ所であり、それが銅線でもあるのだと思います。そのあたりを納得させられると言うか、実感させられた作品でした。河口さんでも、始まりは漢字表記の常識的な批判精神であったと聞いて安心しましたが、黒部に行かれて、その地表に立ったところで、知識の「知」が大地、土地の「地」に重なってきたのですね。

河口:そうですね。

市川:「荒野」とは、思うに、人知、現代のさまざまな知の間の関係が成り立っていない、無秩序な氾濫状態が想像されますが、知識の「知」が土地の「地」と重なる所で新たな関係が提示されています。種子の「知」の発芽と言うか…

河口:そうですね、実際に800冊の本を紙で覆うだけでも作業としては結構というか僕の想像を超えていまして、紙一枚で覆うと書名が透けてみえるんですね。どんな本かがわかるわけですね。それで紙を二重にして、必ず印刷されている何々の本、という表記を見えないようにしたんですね。どれも全部対等な本。金沢美術工芸大学の学生が一緒に手伝ってくれたんですけれども、作業中は絶対に読まないことを約束してもらいました。僕だって読み出したら800冊ですから展覧会に間に合わない(笑)、展示するための労働というのは、自分が考えている作品とちょっと食い違うところがある。ちょっと話が反れましたけれども。

市川:ところで、平仮名表記にして漢字を隠したのは、本にカバーをしたことと通じることではないでしょうか。「ちのこうや」も漢字が見えると、何となくわかったような気になってしまう。視覚的なもの、見えるものを知覚して通り過ぎてしまう。このような見え方、「見える」ということについて、彫刻家の若林奮は、「ほとんど現在の私」という言い方をしています。それに対して「見る」ということは一つの行為、時間を使う行為であります。

河口: はい。

ドローイング《知の荒野》2015


市川:「見る」という行為には、過去の経験も引き出され、若林流に言えば、「過去から侵略された現在」の行為ということで、それは考えるということでもあります。たしかに、見えるもののいちいち立ち止まって考えていては、私たちの生活は立ち行かなくなりますが…。ともかくも「見える」ということと「見る」ということとは別のことであるとすれば、河口さんは、見えるものを一旦封印することで、そこに立ち止まらせ「見る」という行為に誘う、それが河口さんの作品の特徴ではないでしょうか。

そのことは《DARK BOX》についても同様と考えます。闇の封印と言われるのですが、たしかに手続き的には事実そうですが、「闇」という言葉を封印したものと私は考えます。闇は見えない(河口さんは「見える」と仰る)が、「闇」という言葉が見えてしまう。そこで言葉が封印されたことで、見えないけれども実在する闇の振動を感じさせるのが《DARK BOX》ではないでしょうか。視覚的なこの現実の空間に時間が内在し始めるのを感じるのです。


河口:闇に関しては、美術でもっとも大事なのは光だと。例えば印象派とかあって、光を一生懸命求める。闇に関してはほとんど無関心であると。それが不思議だったんですね。対等であるべきだと思う。それから見えないものを見させるのが美術だという考え方がありますよね。それだったら人間の目で実際見えないものを見させればいいんじゃないかと。見えないものが実在しているとすれば、それが闇だったわけです。

《DARK BOX》 2018 / 鉄、闇 / 37x56x35cm / 清津倉庫美術館「河口龍夫-時の羅針盤」展 展示風景


市川:見えると見えないを並列的に対比して河口さんの仕事ぶりが語られることがありますが、ちょっと違うような気がしています。その対比の向こう側を見ることが始まりのように思います。見るということは見続けるということで、そこに介在してくる時間が、見ている対象に寄り添う時間であり、それが河口さんの言われる「関係」の実質と言いますか本体(?)ではないでしょうか。「関係」は見えない、それは、空間に拠らず、時間に拠るものだから。見ることで考えるその時間を私たちに持たせてくれることに感謝します。ところで、「関係」の発生についてお伺いしいたいのですが。

河口:関係ですか。60年代から70年代にかけて観念とモノ(物質)が対立関係になった時代があるんですね。
観念に一切とらわれないで、あるがままのモノで芸術表現はできないか。もう一つはモノを一切使わないで物質の呪縛なしに、観念だけで芸術表現ができないかという問いです。コンセプチュアルアートといわれたり、もの派といわれたり対立として捉えている。僕はモノも大事だし、観念も大事で、どちらかを分けるという考え方にはついていけない。むしろモノと観念の関係こそが一番大事なんじゃないかという発想ですね。それで関係というのは眼にみえないけれども感じることはできるかもしれない。それは芸術の構造を捉えているとみているからです。

《関係-地上の星座・北斗七星》 2008 / 水、黄色いボウル、銅の皿、鉛で封印した蓮の種子、錘、水糸、蜜蝋 / 清津倉庫美術館「河口龍夫-時の羅針盤」展 展示風景


河口:今回の展示作品の話をちょっとしますと、体育館に黄色い水槽があって水が張ってあって錘がぶら下がっている。地球が自転しているから目には見えないけれど揺れているはずです。それが水平面を動かしていると思っているんですけれども、作品の配置は北斗七星に従っているんですね。天空の星を地面に置くんですけれども、その先に北極星がある。その北極星は、小さな器と大きな器が重なっているんですが、並べておいて水を入れていきますよね、水がいっぱいになって溢れる。ボールの中にあった水が、水の中にボールがあるというように変わっていくんです。それがずっと続いてゆくとものすごく大きなボールをつくることになります。今回、展覧会名を「河口龍夫―時の羅針盤」としました。船乗りが夜空の北極星を見て地軸の北極のずーっと延長を目標にしていく。 今現在僕にとっての北極星は何かと考えたら、これは「時間」じゃないか。北極星に値するのは時間。僕の人生で関わる北極星なんですよね。僕は日常的なものと宇宙みたいなものの振幅が好きというかこの場所では気づかないけれど宇宙に住んでるんだという気持ちがあって、作品もその振幅が基になっているかもしれません。

市川:先ほど、見続けると申しましたが、四六時中見続けるということではなく、もとよりそんなことは不可能です。

河口:あーそうですね。

市川:それでも見続けるということ、繰り返し見ることを重ねる、これが関係というものかと思いますが…

河口:でも見続けると飽きてくることがありますよね。僕はゼッタイ飽きない作品をつくろうとしたことがあるんですよ。10年20年見続けても飽きない作品、「飽きない作品」というタイトルの作品を真剣につくろうとしたんですが、できない。

市川: そうは言いながら、例えば家族という関係は、飽きた飽きないと言ってはいられない…

河口;それは言っちゃいけない(笑)。 表現の問題で一瞬飽きるということはあるかもしれないけれども言っていいことと悪いことがある。

引き出しアート《Taのへその緒の痕跡》2012 / まつだい「農舞台」


市川:なぜ、家族などと言うことを持ち出したかと言うと、河口さんの作品に臍の緒を取り上げた作品があるからです。これも関係の一例ですが、勿論、家族といえども、そこには独立した人格としての、社会的な関係はありますが、臍の緒となると、人格の次元の問題ではなくて、この世に現われた、誕生した存在そのものとの関係がありそうに思えるのです。

河口: 実際、僕は「関係」を見ることのできるものは何かと考えたことがある。一つは熱じゃないかと思うんですが、熱は見ることはできない。もう一つはへその緒です。母親と私自身の関係を表すへその緒。へその緒に値する関係の表現を考えたとき、とりあえず過去のものを僕ら大学のとき、モノを描く勉強をすごくさせられたんで、へその緒も描けるんですけれども、母親に私のへその緒があるかってきいたら、激怒されました。母親は私を産んだことになんの疑念ももっていないのに、その証拠のへその緒を見せろといわれたと思い怒られました。ようやく説明してへその緒を描きました。そこには父がないんだなあ。父というものはへその緒みたいなものがない。

《関係 - 黒板の教室(教育空間)》2003 / まつだい「農舞台」

撮影:中村脩


市川:具体的な「関係」の話しになりましたが、話しを戻して、昨年のもう一つの個展“1963年の銅版画”展について触れてみたく思います。これは、55年前の旧作とたまたま再会したところで、それを展示した展覧会ですが、どういうお考えがあったのか、と言いますのも、単に、作品を見てもらうという展覧会ではなかったと思うのです。55年という時間の無関係と関係の展示ではなかったかと。

河口:そうですね、作家っていうのは基本的に新しいものを発表したいんです。僕もそうですけど、新しい作品は前の作品よりいいと思っているわけですね、作家は。だけど、過去の作品という時間的な距離を置いた場合に、1963年の銅版画がたまたま他のものを探していたときに出てきて、最初の感情は、「すぐに発表しなくてごめん、悪かった、ようやく機会がまわってきた。」作品は幸運なことに作ってすぐ発表できるものもあれば、忘れ去られているように、発表ができないことがあるんです。ただ、作品は存在させなきゃいけないんで、僕以外の人に一人か二人かは見てもらうようにしてるんです。たぶんその作品も見てもらった可能性があるんですけれども、その作品を発表する意欲みたいなものは僕にはないんですね、ただ、それを使って何かしましょうという話があって、そうすると、今、この55年前の作品がどう見えるか、ということが唯一1963の作品が今と関係するんじゃないかと、それが一つ大きいんですよね。

《関係—大地・北斗七星》 2000 / 松代エリア、越後妻有「大地の芸術祭」の里


市川:時間がなくなりましたので、最後にもう一つだけ。此処妻有で河口さんが2000年に設置された《関係-大地》、きょうこれから見る作品ですがそれについて。これも明らかに地表というものを意識された、地表を覆うことで向こう側を感じ取る作品だと思います。地平を過ぎ行く流れる時間に対して、垂直の時間、地球として持続する時間の軸を考えたものでしょう。

妻有の「大地の芸術祭」の「大地」にも絡むことですが、我々の生活は地平に広がって展開していますが、生活に必要な作物が地表を境とする上下にまたがるように、「大地」は地表面の向こう側があっての大地なのです。今自分が立っている所は、黒部で河口さんが実感されたように、地下に「保存」された時間、地層を成す持続する地球の時間が地下にあるわけです。その時間の先端にいるのが現在の我々です。地表を意識するとは?それぞれの人間が持っている時間と地球の時間が繋がる所が地表であるということ、このことが今、とても重要なことに思えるのです。

それゆえに、自分は自然の中で、社会という位相をこえて、地球の眼で自らの存在を考える、地球の時間にいかにして繋がり得るかを考えることが、芸術に期待されているのではないでしょうか。その際にひとつの指標となるのが、「言語なき思考」ではないでしょうか。

撮影:中村脩


河口:まったくその通りですね。

ちょっと補足しますけど市川さんに対談をお願いすると、事前に家にいらっしゃって二人でずいぶん話したんですけれどもこうやって人の前で話をすることは今までなかった。その後にの対談のために8枚、びっしり書いて送ってこられた。市川さんの文章を読まれるとわかりますけれども、言葉の向こう側なんですね、一度読んで理解できないこともあります。向こう側は読者が解釈するから、一度読んでわからないこともある。ただ、芸術作品の向こう側、奥行、今それを失いつつあるので、先ほどおっしゃったように、天空でもいいし、地下でもいいし、それを精神に置き換えた形でできればいいなと思いました。

市川さんと本でのやりとりはあったんですけれども、こういう対談の形は僕がお願いして、僕が発想できない言葉を作品から喚起してくださって、ありがとうございました。



河口龍夫 - 時の羅針盤
夏会期 2019年8月10日(土)~8月18日(日)
秋会期 2019年10月12日(土)、13日(日)、14日(月祝)、19日(土)、20日(日)、26日(土)、27日(日)、11月2日(土)、3日(日)、4日(月)

アーティスト

清津倉庫美術館での展覧会

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